妄想本位でいる必要性

何がいいのかといえば、ある程度の思考を簡略化できることだろうか。

例えば、ある鉄道の車両に何かの動きがあったとしよう。ファンならこの先の展開を予想したがるのは当然だが、そこは自己保有の困難な鉄道が対象であること、大抵は現実的な展開を軸に議論されることになり、残る必要のないものは潰されるとの予想が大勢となる。そして記録に残さんとばかりにファンが対象の下へ集結し、お馴染みの罵声大会へと発展していくわけだが、ここまで受動的な趣味もそうあるまい*1

さて、私の楽しみ方は「編成表を崩して組み直す」ということが軸になっているのだが、(あまり公表されていないのか、それとも本当にマイナーなやり方なのかわからないが)同類を見かけることはまずない*2。遅くとも15年前に「岡山電車区115系の動き」を雑誌で見て、編成の組み換え遊びをやった記憶はあるし(未だに題材として遊ぶことも)、この頃既にワープロで架空の編成表をでっち上げて、需要だの予算だの関係なしに崩しては組み換えるという遊び方*3もしており、未だに103系やら485系やらでやりたい放題な編成の組み換えを続けられるほど、妄想本位に傾いている。

問題はこの発想で現実を見てしまうと、物凄く辛い思いをすることだ。正確に言うと、受動的に楽しめない機会が多くなった。一時期京王関連の個人ファンサイトの複数の掲示板において、見当違いの予想を連発、周囲との軋轢も生じかねない状態に陥ってしまい、楽しめなくなった挙句、一方的に離れてしまった*4実車の話題は題材の供給源であると同時に、妄想を破壊する「現実」として立ちはだかる二面性を抱える、所謂「女性像」に近いように思う。

「理想」と「現実」のバランスが採れた思考が必要となりそうだ。

*1:輸送用の飛行機やバスもそれに近い存在のはずだが、目立ったトラブルを聞かないのはなぜだろうか。

*2:あくまで見かけるかどうかの話。

*3:着せ替えに近いかもしれない

*4:さすがに沿線住民ではあるので、現在は場所を限定してごく小規模に活動。