| 2015/11/05(Thu) 14:18:12 編集(投稿者) 2015/11/05(Thu) 14:15:23 編集(投稿者)
運用情報の余談となりますが、58年間の人生を振り返って鉄道の話をします。
私が鉄道に興味を持ったのは、3歳から5歳の頃、当時父が湊町(JR難波)駅構内の貨物駅で勤務していたので、毎月、給料日になると母に連れられて柏原市高井田から柏原駅筋まで近鉄バス(当時2階建のビスタカーに似たバスが運行されていました。)大正通りを歩いて、国鉄の柏原駅(当時東口はありませんでした。西口のみです。)国鉄柏原駅から国鉄湊町駅まではキハ35系・2両編成でした。天王寺ゆきがほとんどでしたので、天王寺から湊町までは「快速」これもキハ35系・2両編成ばかりで、新今宮や今宮は通過でした。新今宮は普通も通過でした。途中の久宝寺駅ですが、北側が奈良方面ゆき・南側は湊町ゆき、約300メートルはなれていました。竜華機関区や竜華客貨車区 竜華操車場などがありました。城東貨物線や阪和貨物線の貨車入換が盛んな時代でした。
昭和40年(私が小学2年生)に父の転勤で、和歌山県御坊市に転居しましたがその頃、天王寺から紀伊田辺まで旧型客車(オハフ33・オハ35・46・47 スハフ42等)が紀勢線直通で運行されていました。 国道42号線の海岸沿いの地区でしたので、中学3年生になって父からカメラを買ってもらい、紀勢線の印南駅で、D51やC58やDF50などが牽引する客車や貨車の撮影をしていました。 当時急行きのくに号に南海の直通のキハ55型が運行されていました。 普通は、DF50型機関車の牽引する旧型客車ばかりでしたが、時々キハ45型気動車の運行もありました。昭和48年に関西線が電化開業して、紀勢線にキハ35型気動車が導入されていました。昭和53年10月の紀勢線電化開業まで運用されていましたが、特急くろしおにキハ81系が昭和41年から運行されていましたが、御坊は特急の停車駅ではなかったのですよ。電化開業で、先月の30日で引退した381系振り子電車が新製された昭和53年から、御坊も特急停車駅になりました。当時、普通は113系でした。東海道線で使っていた古い車両が殆どで、クーラーつきは少なかったのですわ。新製車両は1編成のみ、紀伊田辺から新宮間は、113系4両でした。昭和51年に大阪府八尾市の工場に就職しました。 当時仕事中心で、鉄道の趣味はしなかったのです。残業5時間・夜勤・徹夜がおおかったので・・・。
昭和54年1月に父が食道癌で他界。昭和55年10月に大阪府府営住宅の柏原河原住宅が当たり、7階のエレベーター停止階の部屋に入居してから、鉄道の趣味を再開しましたが、関西線は、普通が101系 快速が113系赤帯 ばかりでした。2007年Tanabeさんのサイトを知り、こんな調査もあるんやと思いながら、書き込みしました。阪神大震災の時に、14階建の住宅が横揺れがひどく柱にヒビがありましたので、当時建て替え住宅の中に現在住んでいる、藤井寺川北住宅がバリァフリーの住宅でしたので、母の為に申請をし平成11年10月に入居しました。母は、介護ベットで寝たままの生活になりましたが、平成20年に難病のパーキングソン病になり、岸和田市の難病専門の病院に入院させ、平成24年6月15日午後10時17分にあの世に旅立ちしました。
58になっても、西一番踏切で運用調査をしていますが、踏切を渡る人は「あの人なにしてんのかぁ」と思っている人は多いことですが、元気のうちはまだまだ続けます。
乱文ですが、以上です。
|